誰もわかってくれないなら

 最近、毎週メンタルクリニックに通っていて、ADHD認知行動療法にハマっている。もともとだらしないとかがさつとかいうレベルを通り越して全く自己管理能力がないままこの歳までどうにか若さと女であることだけを武器に生き延びてきたが、時間管理やセルフマネジメントを学ぶうちに、これまでの私の自責の念だとか生真面目さだとか努力というのはほとんど無駄な徒労で、必要なのは自己理解と知恵と工夫だったということが本当によくわかるようになった。

 今日はメンタルクリニックでアンガーマネジメントについて学んだ。どんなときに強い怒りを感じるか?それは何に対してか?私の場合、「理解してほしい」「共感してほしい」という気持ちが強すぎて恨みや怒りに耐えられないことが多い。とくに自分に好意を示したり心配したりしてくれるはずの人が、自分の立場や状況や考えなどを一切想像しようとしなかったり、決めつけてきたり、「あなたのために」と言い訳しながらエゴからくる要求を押し付けてくることにとてもストレスを感じやすい。

 しかし、なぜそんなに私が「理解してほしい」と渇望していたのかといえば、そもそも自分自身が一番自分を理解していなかったからなのだ。

 私はいつも、どこかで「普通の感覚」「正しい感性」の亡霊に脅かされているように感じながら生きてきた。ご飯を食べるだけでも、美味しいと感じれば「私が美味しいご飯を食べるなんて、そんな贅沢をみんな許すはずがない」といったよくわからない罪悪感が浮かんできたり、不味いと感じれば、「ご飯はおいしそうに食べなければ失礼だ、おいしそうな表情をしなければ」と、またよくわからない義務感に苛まれたりして、結局美味しいか不味いのか自分でもわからなくなっていく。こういう感覚に苛まれすぎて、私は自分の体調が良いのか悪いのかすらこれまで自覚ができていなかった。私は学生の頃、何もかも嫌になって授業をさぼって保健室に行くことが何度かあった。仮病に違いないと思っていたのに、そういうときはたいがい本当に熱が出ている。苦しい時の「元気そうで良かった」だとか、楽しいときの「無理して笑ってない?」だとか、美しいものを醜いと言われたり、好きなものを否定されたり、逆に嫌いなものを褒めたたえるようなことを言われたり……そんな自分の感覚を否定して修正しようとするあらゆる言葉の呪いが頭に沸いてきて、私の自我をバラバラにした。自分がわからない、という苦しみのせいで私はずっと理解されたい、理解されたい、と飢えていたのだろう。

 しかし、この飢餓感は自分を正しく認知できないことからきていた。私は「普通の感覚」「正しい感性」であろうがなかろうが、そこに罪悪感を覚えることや本来の自分の感覚を否定しようとすることよりも、客観的に自分の状態を理解した上で対処するほうがよっぽど重要なのだということが、ようやくわかった。

 これまでの私は「眠い」と感じたら「私は眠くなるほど動いてもないし疲れてもいないし眠る資格なんかないのだから起きていなければならない」と思ったり、それでも結局眠ってしまって「私は大して動いても疲れてもいないのに眠ってしまうゴミ人間だ、何をしても無駄だ」と考えたりしていた。最近は、「眠い」と感じたら、その状態を認めた上で、私はいまなぜ眠いのだろう、今日何に疲労を感じたのだろうか、睡眠リズムが乱れたり睡眠時間が確保できていなかったりしただろうか……と客観的に考えて対処できるようになった。

 これまでずっとどこかで「本当の理解者」を求めていた。完全な理解こそが完璧な愛だと信じてそれを他人にそれを無理に求めたりもしてしまった。でも必要なのは、私が私の状態を素直に認めることだ。眠い時は眠いし、疲れたときは疲れてるし、美味しいときは美味しいし、不味いときは不味いし、苦しい時は苦しいし、楽しい時は楽しい。私が感じていることが正しくても間違っていても、客観的事実だ。それは必ずしも他人と共有すべきものではなく、そう感じること自体を否定しても仕方なく、自覚した上で、他人にどう伝えてどの程度共有するか考えるべきことだ。

 そういうわけで、私は私自身の真の理解者になろうと思うのです。それが自己管理能力の向上につながるというのもあるけれど、きっと自分を大切にするということなのだと思う。そして、自分の理解者になることではじめて、共感できなかったり価値観の異なる他人のことを想像して受け入れるということも、もっとできるようになる気がしている。そしてもっと異なる存在である他人を愛せるようになったら、幸せに生きられるのではないかなあと思う。