母の日にママに電話した

 今年の母の日は母と電話ができた。

 現在、親との交流はほぼ皆無で、父とも最低限の事務的な連絡しか取り合っていない。実家にも、もう二年以上は帰っていない。でも私は今この距離感が一番いいような気がしている。突然連絡なしに母が家に来たり、年に何回か実家に行って食事をしたりしていたときには、精神的につらいときはいつも母が夢に出てきてうなされた。そしてそんな自分が嫌になった。ほぼ連絡をとらなくなった今、母から受けるストレスへの不安よりも、今どうしているか心配だとか近況を聞きたいだとか、肯定的な感情が生まれるようになった。そう思えるような心がどこかにちゃんとあった自分にも安心できた。昨年の母の日はいろいろあって連絡できなかったことが気がかりだった。だからこれからもこの距離感でいたい。

 何があってそうなってしまったのか。たいがい他人からかけられる言葉は決まっている。まともな社会生活をしている人からは、いつまで甘えているんだ、親不孝者だ、そろそろ親孝行したらどうなんだと説教される。さらに家族と仲が良い人からは、心配ばかりかけないでたまには実家に帰ってあげなよ、親は寂しいんだよと諭される。あるいは、家庭環境に苦労した人からは、毒親だったんだね、虐待されていたんだね、愛されてこなかったんでしょう、許さなくてもいいよ、と同情される。それが世間の反応であるのはわかっている。でもどれも違う。

 これは依存関係の問題だ。そして、日本における女親と娘のそういった過干渉だとか母子密着の問題はありがちでよく語りつくされていることでもある。最近は母か娘の発達障害が原因で起こる母子関係の問題もあれこれ語られ始めた。私はそうした問題がもっと深刻な家庭に比べてもかなりましで、自由にさせてもらっていたのでとても毒親と呼べるレベルではない。もっと深刻で束縛がひどい母親だったりする場合、娘はリストカットがやめられなくなったり、摂食障害になったりする。「毒親」なんて扱いで実の親を否定したくない。どちらかといえば加害者は私なのだ。私の母は生真面目で努力家だったけれど、けして精神的に強くはなかった。おそらくカサンドラ症候群(発達障害の家族や恋人が原因で陥る精神症状)だった。母親の問題より、私が育てにくい特性の子供に生まれてしまって苦労をかけたのだ。そういう思いも強いがゆえに、おそらく逆に抑圧している否定的な感情を肥大させすぎてこじれにこじれてしまった。私の若いときの人生はわりと波乱万丈で、他人が聞けばびっくりしたり同情するような悲劇もある。しかしそのどれもかすむくらいに、この大したことのない母との関係の問題がすべての原点にある。おそらく多くの人の共感は全く得られないと思う。

 それでもやはりそれだけ苦しかったし傷ついてきたというたしかな実感があること、私自身にとっては深刻なトラウマであるという事実、それは否定しないで自分に対して許すべきだという結論に至った。耐えて抑圧しているだけでトラウマは殺せない。いつまでも親のことにこだわっている自分を強迫的に責め立てるだけで大人になれるわけではないからだ。傷ついた自分を許すことが相手を責めて悪者にすることにしかならないと、自己正当化の言い訳にしかならないと、私は思い込んで生きてきた。お互い立場や感じ方が違っていただけだというのに。この自己受容ができないがためにこんなにもひねくれて面倒な人間になってしまった。

 これから私の親子関係がどうなっていくのかはわからない。ただ言えるのは、お互いのすべてを理解して許し合うべきだと考えるのはもうやめた。傷つけ合わないために、お互いを守るために必要なのはストレスのない距離と、思ったよりずっと長くかかりそうな時間なのだ。それはまだまだ続きそうな私のモラトリアムを終わらせるための葛藤の日々だ。まだまだ知恵が足りない。失敗を繰り返し、チャンスは減っていく。戦っているうちに私はすっかり歳をとり、答えが出ないうちに母は死ぬかもしれないが、それでもゆっくり進んでいる。

 母はきちんと私を愛してくれた。しかし愛はすべてを解決しないし救いもしない。愛しているがゆえに見えないこと、向き合えないこと、知りたくないこと、受け入れられないこと、傷つくこともあるということを私はやっと感覚としてわかるようになってきた。それはたしかに悲しいことだけれど、私が否定されるということではない。否定しあうことではない。