愛がわからない

 私には愛されたいという欲求がよくわからない。

 今まで恋愛をしていて一途にひとりの人をちゃんと愛せたこともない。

 特定の人の魅力にそのとき夢中になること、舞い上がった気分になること、依存すること、執着することはわりと容易くできてきた。だからこれまで多くの恋愛もしてきた。しかし、愛されたいという気持ちはわからなかった。嫉妬心というものもよくわからなかった。なぜか、愛する人の幸せを望むことができず、不幸を分かち合うことしか望むこともできなかった。共に生きる未来を想像できたこともなく、いつもその場限りの逃避行を楽しんできた。怒りを向けられたり、傷つけられたり、恥をかかされることに満足したり、逆に裏切ることや攻撃することに楽しさを覚えることもあった。大切にしたい、と思ったとしても今考えたらそれは本音というよりそう信じたかったように感じる。その中に私なりの優しさや思いやりも確かにあったけれど、いつも恋人と大切にしあうことができなかった。

 それは根本的に他人から与えられる愛を信じることができないからなのかもしれない。向けられる好意のなかに、私はいつも下心やエゴや加害性を探してしまう。それが暴力的なものであることを確認しようとしてしまう。そのために私は風俗の仕事をしていたのもあるかもしれない。精神的に未熟で自分勝手な人ばかり選んできたし、異性に体を委ねたり、お金を貢いだりしてきたのかもしれない。配信をし始めたのも、そういう理由だったのかもしれない。どこかで、愛や承認に飢えた人たちをひどく軽蔑してきた。そんなものが信じるに値すると思っているなんて。そんなものを与えられる価値が自分にあると思いあがっているなんて。全世界に存在を否定されても本当の私は傷つかない。恋愛においては、献身的な相手に恨みを感じたり、自分が献身的に振る舞うとすぐにそれを愛情と捉える相手にも恨みを感じることがあった。そのくらい愛が憎かった。

 そんなひねくれた価値観で自己愛の檻の中で図太く放埓な人生を生きて、この先も死んでいくような気がしていた私が、今やっとそんな自分が悲しい人間だと思えるようになった。 

 その変化は、一年かけてあるリスナーがずっと私と対話し続けて私の内面の深くにあった謎を解いたことで起こった。

 その変化の矢先に、私には新しい恋人ができた。不思議なタイミングだった。

 他人に期待することは恐ろしい。どうやって他人に差し出せるような自分の価値を認められていると信じればいいかわからない。私は今、信じようとするほどに自分が無力で無価値に感じられて他人が怖くて、胸が寒くなる。今の恋人の前では、たびたび自己嫌悪で涙が出そうになってしまう。それでも今私は罵倒ではなく、優しい言葉に耳を傾けようとしている。自分を振り回すのではなく、大切にしてくれる人を信じてみたい。ちゃんと人を愛して、傷つけられたり裏切られても仕方ないと思うのではなく、そのときは怒りたい。信じて裏切られることを惨めだと思うのではなく、信じてくれた人を裏切ることをそれより恥ずかしいと思える人になりたい。

 幸せになりたいと願えるようになりたい。好きな人を守りたいと思えるようになりたい。難しいことだけれど、このまま心が死んだままではいたくない。

 

 

90年代サブカルチャーと炎上系Youtuberについてざっくり

 以前、ロフトプラスワンの90年代サブカルチャーに関するイベントで炎上系Youtuberはその系譜に誕生したのかについて議論になった件についてちょっと所感をまとめたいと思います。

 あのイベントでその話題が盛り上がったことで私はその場ではとても嬉しく、やる気が出て、ニコニコ生放送以前以降から現代の炎上系配信者に連なる文化史を勉強してまとめて、好事家ジュネさんのように動画にすることなど夢見ていた。そういう気分だった。たしかに配信文化には歴史がある。しかし私はそんなことにはそもそも興味がなく、それは根性で頑張って知識で武装してインテリっぽい人たちを納得させるためのことでしかないということに気づいた。それ以前にそもそもインテリっぽい人たちは私がそういう気分でなんか書き始めてもこれ続かねえだろと、その程度の気合いと知能なのはすぐ見透かされるだろうという現実を否認する気もない。

 そもそも私にとって魅力的なのは個人史であって文化史ではないからだ。政治にしても芸術にしても文化にしても、極端な立場を担っている人やその取り巻きほど人間嫌いで高尚なことが好きで、矮小な個人的問題を嫌う。だから孤独に学ぶことに努め、教養で武装する。というのが、そういう界隈で青春時代にバカで痛いメンヘラをやって20代を浪費した私の、経験則からくる偏見だ。だからこそあの場があんなに沸いたのだろう。しかし私は逆に矮小な個人史にしか心を開けない人なのである。敬意と劣等感を感じつつも、本当は文化としての価値なんかに興味ないのだ。

 そしてそもそも、これまでそこそこ歴史があってそれを理解していないと楽しめないコンテンツでありながら配信という世界について、ジュネさんのように文化史をまとめようという人が現れないのは、その文化が教養に裏付けられたコンテンツかどうかが消費者にとっても提供する側にとってもわりとどうでもいいし需要がなかったからだろうと思う。

 私にとって興味があるのは、その文化の中で役割を担った重要な人物がなぜ破滅的になるのか、どうして破滅しなければならなかったのかという部分である。イベントの中で村崎百郎青山正明の舞台裏の暴露のような話もあったが、結局のところどこまでエンタメだったのか、真相はうやむやで、ただ願望と推測だけが語られるようなところも配信者の死の語られ方に似ていると感じる。死が重要な意味を持ち消費される。

 私の配信デビューのきっかけは、ある配信者の死の第一発見者として報告したことをきっかけに、遺族に公表してほしくないと希望された情報を暴露されたり、それを止めるために顔を晒したり、遺体の写真を撮ったことを叩かれて炎上したりしたことだった。遺体を撮影した私は異常なのか?イベント会場にいた死体写真家の釣埼さんに、以前眼科画廊の展示会で尋ねたこともあった。釣埼さんは、あなたはおかしくないと、泣く私を励ましてくれた。

 亡くなった彼は、いわゆる迷惑系配信者だった。歌舞伎町で毎日酒と薬と女に溺れ、ガラの悪い男に小さな体で喧嘩を売りに行ったり、ホームレスにお酒を買ってあげると言って逃げたり、リスナーのふりをしたアンチに車でさらわれそうになったり、バーのトイレに侵入して女性配信者のおしっこを触ったり、毎日毎日トラブルで警察に囲まれていた。そんなはちゃめちゃで刺激的な生活を配信して月100万円。俺は天才だと言っていた。

 彼の亡くなり方は、吉永嘉明の「自殺されちゃった僕」に登場する3人と同じだった。私がプレゼントした危ない一号を彼は読んで、喜んで配信で読み上げていて、青山正明の本もプレゼントするつもりだった。数カ月もするとその危ない一号は、遺品として帰ってくることになった。

 正直言えば、私にとって重要なことはそのことをどう整理するかということでしかない。そしてこれを書いている私は自分がどんな感情なのか、リスナーやアンチのコメントは予測できても、自分でももうよくわからない。加害的側面も被害的側面もあると思う。なぜ彼は。なぜ私は。

 

 

 

母の日にママに電話した

 今年の母の日は母と電話ができた。

 現在、親との交流はほぼ皆無で、父とも最低限の事務的な連絡しか取り合っていない。実家にも、もう二年以上は帰っていない。でも私は今この距離感が一番いいような気がしている。突然連絡なしに母が家に来たり、年に何回か実家に行って食事をしたりしていたときには、精神的につらいときはいつも母が夢に出てきてうなされた。そしてそんな自分が嫌になった。ほぼ連絡をとらなくなった今、母から受けるストレスへの不安よりも、今どうしているか心配だとか近況を聞きたいだとか、肯定的な感情が生まれるようになった。そう思えるような心がどこかにちゃんとあった自分にも安心できた。昨年の母の日はいろいろあって連絡できなかったことが気がかりだった。だからこれからもこの距離感でいたい。

 何があってそうなってしまったのか。たいがい他人からかけられる言葉は決まっている。まともな社会生活をしている人からは、いつまで甘えているんだ、親不孝者だ、そろそろ親孝行したらどうなんだと説教される。さらに家族と仲が良い人からは、心配ばかりかけないでたまには実家に帰ってあげなよ、親は寂しいんだよと諭される。あるいは、家庭環境に苦労した人からは、毒親だったんだね、虐待されていたんだね、愛されてこなかったんでしょう、許さなくてもいいよ、と同情される。それが世間の反応であるのはわかっている。でもどれも違う。

 これは依存関係の問題だ。そして、日本における女親と娘のそういった過干渉だとか母子密着の問題はありがちでよく語りつくされていることでもある。最近は母か娘の発達障害が原因で起こる母子関係の問題もあれこれ語られ始めた。私はそうした問題がもっと深刻な家庭に比べてもかなりましで、自由にさせてもらっていたのでとても毒親と呼べるレベルではない。もっと深刻で束縛がひどい母親だったりする場合、娘はリストカットがやめられなくなったり、摂食障害になったりする。「毒親」なんて扱いで実の親を否定したくない。どちらかといえば加害者は私なのだ。私の母は生真面目で努力家だったけれど、けして精神的に強くはなかった。おそらくカサンドラ症候群(発達障害の家族や恋人が原因で陥る精神症状)だった。母親の問題より、私が育てにくい特性の子供に生まれてしまって苦労をかけたのだ。そういう思いも強いがゆえに、おそらく逆に抑圧している否定的な感情を肥大させすぎてこじれにこじれてしまった。私の若いときの人生はわりと波乱万丈で、他人が聞けばびっくりしたり同情するような悲劇もある。しかしそのどれもかすむくらいに、この大したことのない母との関係の問題がすべての原点にある。おそらく多くの人の共感は全く得られないと思う。

 それでもやはりそれだけ苦しかったし傷ついてきたというたしかな実感があること、私自身にとっては深刻なトラウマであるという事実、それは否定しないで自分に対して許すべきだという結論に至った。耐えて抑圧しているだけでトラウマは殺せない。いつまでも親のことにこだわっている自分を強迫的に責め立てるだけで大人になれるわけではないからだ。傷ついた自分を許すことが相手を責めて悪者にすることにしかならないと、自己正当化の言い訳にしかならないと、私は思い込んで生きてきた。お互い立場や感じ方が違っていただけだというのに。この自己受容ができないがためにこんなにもひねくれて面倒な人間になってしまった。

 これから私の親子関係がどうなっていくのかはわからない。ただ言えるのは、お互いのすべてを理解して許し合うべきだと考えるのはもうやめた。傷つけ合わないために、お互いを守るために必要なのはストレスのない距離と、思ったよりずっと長くかかりそうな時間なのだ。それはまだまだ続きそうな私のモラトリアムを終わらせるための葛藤の日々だ。まだまだ知恵が足りない。失敗を繰り返し、チャンスは減っていく。戦っているうちに私はすっかり歳をとり、答えが出ないうちに母は死ぬかもしれないが、それでもゆっくり進んでいる。

 母はきちんと私を愛してくれた。しかし愛はすべてを解決しないし救いもしない。愛しているがゆえに見えないこと、向き合えないこと、知りたくないこと、受け入れられないこと、傷つくこともあるということを私はやっと感覚としてわかるようになってきた。それはたしかに悲しいことだけれど、私が否定されるということではない。否定しあうことではない。

ADHD治療記録日記1

1月からほぼ毎週ケアプログラム(心理士さんと作業療法士さんが司会進行して、発達障害の当事者が助言し合ったり議論したりするもの)には通っていたけれど、今回12月ぶりにお医者さんの診察を受けました。

 

12月にハウスクリーニングの仕事をするためにコンサータを処方してもらったけれど、結局仕事はやめてしまったし、コンサータは集中力が必要な大事な日や、調子が悪いけど頑張らないといけない日にたまに飲むだけでした。それは依存性や副作用が怖かったし、なんとなく服薬に抵抗があったためです。周囲で精神科の薬に依存していく人や、不眠が酷くてどんどん眠剤を増やしていく人を多く見てきたので薬が怖かったのもあります。お医者さんも無理に飲む必要はないと言っていたし、できるだけ認知や習慣を変える方向で治療していくつもりでした。

でもケアプログラムに参加していて、睡眠リズムを安定させることが生活習慣を整えるのに大事だと実感するようになっていきました。いろんな生活課題の中でも、心理士さんや作業療法士さんが一番重視しているのが睡眠に関する問題だというのもわかりました。

ちなみに、私は不眠症ではありません。比較的寝つきは良い方だと思うし、朝もだるくてもなんだかんだ起きることができます。早朝のバイトを続けていたこともあったし、睡眠のコントロールには自信がありました。それでも、ADHDの特性について学んだり自分の習慣を振り返ったとき、深い睡眠によって決まった時間にきちんと体を休めることが、あらゆる生活の乱れの修正にも何より重要な気がしてきました。それで軽い眠剤を毎日同じ時間に飲んでみるのも良いかもしれない、と考えが変わってきたのです。

 

そういうわけで眠剤をもらいに今回は診察を受けに行き、新しいお薬を処方してもらいました。

私は不眠もないし、もともと薬が効きやすいので眠剤はかなり軽いものにしてもらいました。

さらにそれに加えて、今回の診察をきっかけに、ADHDの薬も変わることになりました。

たまに飲むコンサータ18ミリから、毎日飲むストラテラ(ジェネリックで名前違うけど同じものです)10ミリに変えてもらいました。

お医者さんにコンサータの効果について尋ねられて、私には合っていない可能性があると言われたからです。

私の場合、コンサータを飲むとたしかに過集中にはなるけれど、やるべきタスクの範囲やそれにかかる時間が把握できずに興味があったり注目している部分だけに視野が狭まっていくという問題は解決しませんでした。私はそういうものなんだ、薬の効果なんてこの程度なんだと思っていました。これじゃあコンサータを飲んでもハウスクリーニングの仕事もできるようにはならないし、事務作業でもなんでも、どの仕事も今までと同じようにとてもできないなという感じでした。でも薬を変えたらそれは変わるかもしれないとお医者さんは言うのです。効果を実感するまで1カ月ほどかかるようで、かなり軽くて弱いものから徐々に慣れていく必要があるとのことですが、信じて試してみます。

というわけでこれからは毎日お薬生活です。ついにあかずもお遊びODお薬さんでなく、公式お薬さんです。あと、ストレス発散のためのODはどうしてもたまにやむを得ずしてしまうのだけど、これからは私はバカなりにも学ぶこと考えること、それを人と共有することを希望にして現実逃避に代えていきたいと思ってます。なんか気持ち悪いきれいごとだけどね……わりと本当にそう思ってる。

 

少しでも変われるといいな……。自由でいるために、自分でできることを増やしたい。それが私の望む幸せです。

本当にそれは困難で、無謀で、でもほんの少し可能で、少しづつ、かなり時間のかかる道のりになりそうです。

なんでもペラペラ喋る馬鹿正直

 私は嘘や隠し事が苦手で、なんでもペラペラ余計なことをしゃべる癖がある。

 これまで多少は相手に合せて余計なことを言わないように、多少は苦手なりに嘘や隠し事もして生きてきたが、配信者となると公開している情報の多さや、不特定多数のリスナーに向けて長時間雑談をするスタイルや、配信者を潰すためにやましいことが何かあったら暴露しようと目論んでいるアンチの存在のせいで余計に嘘や隠し事は難しくなる。そうなると、知られても不利になったりリスクにしかならないことを知られてしまったり、自分のことだけならまだしも、私の性格上、自分だけでなく他人の秘密や個人情報まで危険に晒すことになるので厄介だ。

 さらに、私はいちいち言わなくていいことや失礼なことでも馬鹿正直に言ってしまう癖がある。前回の記事にも書いたが、「理解してほしい」「どうしてわかってくれないの!」という気持ちが他人に対して強すぎて、自分の置かれた状況や考えや感情を、どうせ伝わらない相手に一から十まで説明して伝えようと必死になってしまうのだ。

 インターネットに携わる人間の特性としては、ネットリテラシーが皆無で、スルースキルもないという最悪な人間ということになるが、このような自己開示の問題はASDの特性からくるものだ。ASDは、言葉の裏の意味や冗談を理解するのが難しく、言葉通りに受け取りすぎたり、そのせいで空気が読めなかったり、臨機応変に嘘や隠し事が言えずに思ったことをなんでも口に出してしまう傾向がある。私は広汎性発達神経症の検査でASDに関しては、成長とともにコミュニケーション能力を身に着けてきたという理由でグレーゾーン(健常者と障害者の間くらい)と診断されている。それでもASD特性からくるコミュニケーションの問題は、とくに配信者として生きていく上ではとても大きい。

 私は自分のだらしなさや自己管理能力のなさ、ドジで些細なミスをしやすい不注意の問題などに関しては自身のADHDの特性の問題として最近はよく考えて対処しようとしてきた(具体的には、部屋の片づけや掃除の仕方の工夫、身だしなみを清潔に保つための自己管理、書類の提出や事務手続きを期限以内に終わらすなど予定を予定通りこなすためのタイムマネジメント)。しかし、ASDからくるコミュニケーションの問題に関しては、友人が多くて人付き合いにそこそこの自信があったり、グレーゾーンと診断されていることもあってあまり気にしてこなかった。しかし、改めてメンタルクリニック認知行動療法を進めていくうちに、過剰な自己開示をしてしまうというコミュニケーションスキルの問題はけっこう自分自身を苦しめているということを実感してきた。

 私は「素直で正直なところが好き」と言われたら嬉しい。でもそれがいつも自分や他人のためになることとは限らない。

 たとえば、私はこれまでの仕事の経歴もあって、配信上でも友人や知人に対しても性的な話をすることが多かった。私が関心のあることは小難しい偏った知識の話が多いので、下ネタだったら多くの人と共有して笑いのネタにできるというのもあって積極的に性的な話題を楽しんできた。ところが、一定の信頼関係があればそれは楽しいおしゃべりというだけで済むかもしれないが、性的な話を積極的にする=軽くて誰とでもセックスをする、ワンチャンスある、セクハラをしてもかまわないといった誤解や偏見を持つ男性が世間にはいまだに多いことを考えるとリスクも大きい。実際に、私はいきつけのバーで知り合った初対面の男性客とフランクに性的な話をしたことが理由で準強制わいせつ致傷の被害にあった。バーで酔いつぶれて眠っている間にブラジャーを外されて胸を揉まれ、それに私が怒って喧嘩になると、男性客は「30歳の元風俗嬢のくせに、値打ちこくな!」と怒鳴られ、手首をつかまれ、声が出なくなるほど首をしめられた。性的に奔放に見えて年齢も高い私が彼の誘いを断ったり、さらにはセクハラを訴えたことが、彼の男性としてのプライドを傷つけたのだろう。配信を見て事件に気づいたぜろわんさんが助けに来なければ、私は殺されていたかもしれない。

 その事件のあと、いつも応援してくれるリスナーたちからは慰めや励ましよりも先に「軽く見られるようなことはするな」などと責められ、事件の被害以上のショックを受けた。私は自分を守るために、安全な人間とは普通に楽しめるおしゃべりも封印されてしまうということにとても不自由を感じた。

 多くの人に自己開示することは、自分を理解してくれたり共感してくれる人との出会いのきっかけになると同時に、同じくらい誤解や偏見を向けられて傷つくリスクを抱えている。

 最近になって、初めてASDの個別面談で作業療法士さんに自己開示と配信についての悩みを打ち明けた。発達障害専門プログラムのワークブックによれば、自己開示には三段階ある。まず、初対面でも話せて電車内などの公的な場所でも話せる内容、次に、知り合いなら話せたり、知っている人しかいない場所なら話せる内容、最後に、きわめて個人的な告白、信頼できる相手だけに話せる深刻な内容だ。三つ目は相手を選ぶ必要がある。私はこれまでこのすべてを常に区別できずに、無防備に全世界に発信してきたのだ。

 私はいつでも本当のことを伝えていたい。本音でいたい。しかし、私は今後の配信をしていく上で自分の心を守るために、そしてリスナーたちとのより良い関係性を守るために、お互いを傷つけないために自己開示に関するルールをいくつか設けた。

 

1・守らなければいけない秘密は常に意識して守る

2・指示や説教に対しては、「できたらやる」「そのうちやる」とごまかして、できない言い訳を付け加える。実際やらなくてもいい。応援する気持ちに対しては「ありがとう」、批判に対しては「不快にさせたり心配をかけてごめんね」と返す。

3・差別や偏見、決めつけに対しては「そうかもしれないね」「なんともいえない」と、否定も肯定もしない。

4・行き過ぎたからかいや冗談に対しては、ノリ良く対応するか、怒って見せてツッコミ待ち。

5・セクハラに対しては「私なんかよりもっと良い人いるでしょう」と、自虐で断る。

 

 この五つだ。

 新しいコメント対応のルールを設けてこれらをマニュアル化してから、「リスナーに気を遣いすぎ」という意見を言われたこともある。しかし、私はこの5つ以外に関しては極力本音で話すようにしていて、自分を偽りたいとは思っていない。なんなら、こういうルールでやってることをこうして公表もしている。これから少しづつ、自己開示の量を調節して大人のコミュニケーションができるようになりたい。

 アドバイスが行き過ぎて説教臭くなる人も、期待しすぎてあれこれ要求してくる人も、私に何か願望を抱いてそこにない幻想を見ている人も、いじったりからかったりときにはいじめてくる人も、性的興味を抱く人も、かたちは歪であれみんな私にそれぞれの愛をくれている。それでもリスナーたちに対して、「なんでわかってくれないの」病をこじらせて不満やストレスを抱えてしまうときもある。そんなときはそんな自分の理解者であろうとしたいし、自分自身を存分に労わろうと思う。きっとそれが、本当の自分を見てくれなかったとしても、少なくとも自分を愛して応援してくれるリスナーを受け入れることにつながると信じている。

誰もわかってくれないなら

 最近、毎週メンタルクリニックに通っていて、ADHD認知行動療法にハマっている。もともとだらしないとかがさつとかいうレベルを通り越して全く自己管理能力がないままこの歳までどうにか若さと女であることだけを武器に生き延びてきたが、時間管理やセルフマネジメントを学ぶうちに、これまでの私の自責の念だとか生真面目さだとか努力というのはほとんど無駄な徒労で、必要なのは自己理解と知恵と工夫だったということが本当によくわかるようになった。

 今日はメンタルクリニックでアンガーマネジメントについて学んだ。どんなときに強い怒りを感じるか?それは何に対してか?私の場合、「理解してほしい」「共感してほしい」という気持ちが強すぎて恨みや怒りに耐えられないことが多い。とくに自分に好意を示したり心配したりしてくれるはずの人が、自分の立場や状況や考えなどを一切想像しようとしなかったり、決めつけてきたり、「あなたのために」と言い訳しながらエゴからくる要求を押し付けてくることにとてもストレスを感じやすい。

 しかし、なぜそんなに私が「理解してほしい」と渇望していたのかといえば、そもそも自分自身が一番自分を理解していなかったからなのだ。

 私はいつも、どこかで「普通の感覚」「正しい感性」の亡霊に脅かされているように感じながら生きてきた。ご飯を食べるだけでも、美味しいと感じれば「私が美味しいご飯を食べるなんて、そんな贅沢をみんな許すはずがない」といったよくわからない罪悪感が浮かんできたり、不味いと感じれば、「ご飯はおいしそうに食べなければ失礼だ、おいしそうな表情をしなければ」と、またよくわからない義務感に苛まれたりして、結局美味しいか不味いのか自分でもわからなくなっていく。こういう感覚に苛まれすぎて、私は自分の体調が良いのか悪いのかすらこれまで自覚ができていなかった。私は学生の頃、何もかも嫌になって授業をさぼって保健室に行くことが何度かあった。仮病に違いないと思っていたのに、そういうときはたいがい本当に熱が出ている。苦しい時の「元気そうで良かった」だとか、楽しいときの「無理して笑ってない?」だとか、美しいものを醜いと言われたり、好きなものを否定されたり、逆に嫌いなものを褒めたたえるようなことを言われたり……そんな自分の感覚を否定して修正しようとするあらゆる言葉の呪いが頭に沸いてきて、私の自我をバラバラにした。自分がわからない、という苦しみのせいで私はずっと理解されたい、理解されたい、と飢えていたのだろう。

 しかし、この飢餓感は自分を正しく認知できないことからきていた。私は「普通の感覚」「正しい感性」であろうがなかろうが、そこに罪悪感を覚えることや本来の自分の感覚を否定しようとすることよりも、客観的に自分の状態を理解した上で対処するほうがよっぽど重要なのだということが、ようやくわかった。

 これまでの私は「眠い」と感じたら「私は眠くなるほど動いてもないし疲れてもいないし眠る資格なんかないのだから起きていなければならない」と思ったり、それでも結局眠ってしまって「私は大して動いても疲れてもいないのに眠ってしまうゴミ人間だ、何をしても無駄だ」と考えたりしていた。最近は、「眠い」と感じたら、その状態を認めた上で、私はいまなぜ眠いのだろう、今日何に疲労を感じたのだろうか、睡眠リズムが乱れたり睡眠時間が確保できていなかったりしただろうか……と客観的に考えて対処できるようになった。

 これまでずっとどこかで「本当の理解者」を求めていた。完全な理解こそが完璧な愛だと信じてそれを他人にそれを無理に求めたりもしてしまった。でも必要なのは、私が私の状態を素直に認めることだ。眠い時は眠いし、疲れたときは疲れてるし、美味しいときは美味しいし、不味いときは不味いし、苦しい時は苦しいし、楽しい時は楽しい。私が感じていることが正しくても間違っていても、客観的事実だ。それは必ずしも他人と共有すべきものではなく、そう感じること自体を否定しても仕方なく、自覚した上で、他人にどう伝えてどの程度共有するか考えるべきことだ。

 そういうわけで、私は私自身の真の理解者になろうと思うのです。それが自己管理能力の向上につながるというのもあるけれど、きっと自分を大切にするということなのだと思う。そして、自分の理解者になることではじめて、共感できなかったり価値観の異なる他人のことを想像して受け入れるということも、もっとできるようになる気がしている。そしてもっと異なる存在である他人を愛せるようになったら、幸せに生きられるのではないかなあと思う。

綺麗な景色

 私はメンヘラっぽい暗い雰囲気なので、よく「虐待されてたの?」とか「いじめられてたの?」ときかれる。でも実は虐待もされたことないし、いじめられたこともない。なんでこんな風になったかというと、たぶん社会で一般的に求められる能力が低く(具体的には、毎回テストは赤点、浮いてしまうほどの運動音痴、提出物をなくす、ロッカーやカバンの中がゴミだらけ)、それなのにもかかわらず自己愛が強くプライドが高くて協調性がまったくなかったからだと思う。今と違い、他人にもまるで興味がなかった。今ではそれがADHDASDのせいだったと理解できる。

 親からすれば「育てにくい困った子ども」で、学校のクラスメイトたちからすれば嫌われる要素も多い「みっともないしわがままで扱いにくい人」だったのだろう。そして、自分が悪いから誰も悪者にできないということ、そして人並みになれない恥ずかしさが思春期の私を苦しめた。

 中学三年生のとき、修学旅行で八ヶ岳に行った。私はご飯の時間になっても気づかずに寝ていて誰にも声をかけられずに部屋で寝過ごしたり、夜にみんなでUNOをやっていても毎回負けて罰ゲームでいもしない好きな人の名前を何人も言わされたりしていた。とにかく最悪だった。

 そんな修学旅行中、誰とも仲良く話すこともできず心を殺して八ヶ岳を上ってやっと山頂に着いたとき、目の前に広がる絶景を見て私の中におかしな感覚が起こった。みんなが「わあ、きれい!」と嬉しそうにする中、私にはその景色がカレンダーの写真や駅のポスターのようにしか見えなかったのだ。現実の美しいものを見ているという感動がまったくなかった。それ以降、私はずっとこの感覚が残っていて、今も実は残っている。私は配信の中で何度かリスナーさんたちにきれいな景色を見せて、「きれい!」とはしゃいでみせたことがあるけれど、ごめんなさい、本当はきれいかどうかわからないんです。

 さて、中学を卒業して高校生になったころ、私は自分があまりにわがままで他人と合わせないせいで辛い思いをしたのだ、ということを一応学んだ。自分の意見を押し付けたり、人と違う部分を押し通したり、自分の話ばかりしたりするのをやめた。少し大人しくするようにも心掛けた。そうすると普通に高校では友達ができた。(私はASDグレーゾーンと診断されている。成長とともにその特性が治っていくタイプらしい。それでコミュニケーション能力が向上したのだろう。)友達ができることで、時間の管理が苦手でも友達が提出物の準備をしているから期限を守りやすくなったり、助けてくれる人を得たことで成績も低いとはいえそこまでひどくなくなってきた。中学の留学旅行で地獄を見たテーブルゲームも、いつもお弁当を食べる友人たちとトランプをして苦手意識を克服していったし、卒業前にはクラスの友人とディズニーランドにいってはしゃいだりもした。もう、私は中学の修学旅行のときのように疎外感を覚える必要はなくなったのだ。今だって、配信仲間やリスナーたちと一緒にきれいな景色を見ることができる。

 それなのになぜだろう。それからもずっとその感覚は続いた。綺麗な景色が綺麗だと感じられないだけではなく、苦手な場所はわりとある。自然豊かなところ、ぴかぴかのデパートやホテル、高校時代に楽しんだはずのディズニーランドすら苦手なのだ。私はどこかでここは自分の居場所ではないと思っているのだろうか。それはまだ思春期の頃のトラウマとプライドが私の心の奥底に残っているからなのかもしれない。みんなが美しいと感じるものは私を受け入れない、そう感じてしまうから自分から拒絶してしまうのかもしれない。そうすることで自分を特別な存在のように感じて心を守りたいのかもしれない。そのせいで本来得られる喜びが失われているのだとしたら、本当に悲しいことだと思う。

 去年の今頃、金バエさんやヒドンナさんやRINちゃんたちと熱海の温泉旅館で花火配信をした。目の前は最高の絶景。私は花火に本当は興味がないし、スマホを外カメにしていたので、実は配信者たちの顔ばかり見ていた。みんなの顔が花火に照らされて暗闇がぱっと明るくなったとき、画面にうつらなくてもみんな最高の笑顔だった。とくにRINちゃんは大はしゃぎで、画面を見ると、花火を見ているリスナーたちのコメントも大はしゃぎだった。最後の花火が打ちあがったあと、ヒドンナさんが「感動したわあ、本当に来てよかったわあ」としみじみとつぶやく。そのときは、私はみんな楽しそうだしそれを見るのが楽しかったし満足だった。でも、今の私はそのときのことを思い出すと本当に悲しい。どうしてみんなと同じ気持ちでいられなかったのか。私は花火に心を閉ざしているのかもしれない。何が怖いのだろう。街中のテレビで流れる映像のような花火。みんなが楽しいから楽しい、なんて言っといて私は実はみんなに心開いていないのだろうか。でもこの悲しみに酔っていたらいつまでもその花火もわたしにとって本物の花火にならないままだ。悲しみに酔うのは恥ずかしいことだ。

 私は変わりたいと思い始めている。変わるためには、いま周りにいる人たちの存在にもっと感謝したり、特別ではない自分を受け入れなければいけないと思う。難しいけど、今よりも大人になりたい。