90年代サブカルチャーと炎上系Youtuberについてざっくり

 以前、ロフトプラスワンの90年代サブカルチャーに関するイベントで炎上系Youtuberはその系譜に誕生したのかについて議論になった件についてちょっと所感をまとめたいと思います。

 あのイベントでその話題が盛り上がったことで私はその場ではとても嬉しく、やる気が出て、ニコニコ生放送以前以降から現代の炎上系配信者に連なる文化史を勉強してまとめて、好事家ジュネさんのように動画にすることなど夢見ていた。そういう気分だった。たしかに配信文化には歴史がある。しかし私はそんなことにはそもそも興味がなく、それは根性で頑張って知識で武装してインテリっぽい人たちを納得させるためのことでしかないということに気づいた。それ以前にそもそもインテリっぽい人たちは私がそういう気分でなんか書き始めてもこれ続かねえだろと、その程度の気合いと知能なのはすぐ見透かされるだろうという現実を否認する気もない。

 そもそも私にとって魅力的なのは個人史であって文化史ではないからだ。政治にしても芸術にしても文化にしても、極端な立場を担っている人やその取り巻きほど人間嫌いで高尚なことが好きで、矮小な個人的問題を嫌う。だから孤独に学ぶことに努め、教養で武装する。というのが、そういう界隈で青春時代にバカで痛いメンヘラをやって20代を浪費した私の、経験則からくる偏見だ。だからこそあの場があんなに沸いたのだろう。しかし私は逆に矮小な個人史にしか心を開けない人なのである。敬意と劣等感を感じつつも、本当は文化としての価値なんかに興味ないのだ。

 そしてそもそも、これまでそこそこ歴史があってそれを理解していないと楽しめないコンテンツでありながら配信という世界について、ジュネさんのように文化史をまとめようという人が現れないのは、その文化が教養に裏付けられたコンテンツかどうかが消費者にとっても提供する側にとってもわりとどうでもいいし需要がなかったからだろうと思う。

 私にとって興味があるのは、その文化の中で役割を担った重要な人物がなぜ破滅的になるのか、どうして破滅しなければならなかったのかという部分である。イベントの中で村崎百郎青山正明の舞台裏の暴露のような話もあったが、結局のところどこまでエンタメだったのか、真相はうやむやで、ただ願望と推測だけが語られるようなところも配信者の死の語られ方に似ていると感じる。死が重要な意味を持ち消費される。

 私の配信デビューのきっかけは、ある配信者の死の第一発見者として報告したことをきっかけに、遺族に公表してほしくないと希望された情報を暴露されたり、それを止めるために顔を晒したり、遺体の写真を撮ったことを叩かれて炎上したりしたことだった。遺体を撮影した私は異常なのか?イベント会場にいた死体写真家の釣埼さんに、以前眼科画廊の展示会で尋ねたこともあった。釣埼さんは、あなたはおかしくないと、泣く私を励ましてくれた。

 亡くなった彼は、いわゆる迷惑系配信者だった。歌舞伎町で毎日酒と薬と女に溺れ、ガラの悪い男に小さな体で喧嘩を売りに行ったり、ホームレスにお酒を買ってあげると言って逃げたり、リスナーのふりをしたアンチに車でさらわれそうになったり、バーのトイレに侵入して女性配信者のおしっこを触ったり、毎日毎日トラブルで警察に囲まれていた。そんなはちゃめちゃで刺激的な生活を配信して月100万円。俺は天才だと言っていた。

 彼の亡くなり方は、吉永嘉明の「自殺されちゃった僕」に登場する3人と同じだった。私がプレゼントした危ない一号を彼は読んで、喜んで配信で読み上げていて、青山正明の本もプレゼントするつもりだった。数カ月もするとその危ない一号は、遺品として帰ってくることになった。

 正直言えば、私にとって重要なことはそのことをどう整理するかということでしかない。そしてこれを書いている私は自分がどんな感情なのか、リスナーやアンチのコメントは予測できても、自分でももうよくわからない。加害的側面も被害的側面もあると思う。なぜ彼は。なぜ私は。