愛がわからない

 私には愛されたいという欲求がよくわからない。

 今まで恋愛をしていて一途にひとりの人をちゃんと愛せたこともない。

 特定の人の魅力にそのとき夢中になること、舞い上がった気分になること、依存すること、執着することはわりと容易くできてきた。だからこれまで多くの恋愛もしてきた。しかし、愛されたいという気持ちはわからなかった。嫉妬心というものもよくわからなかった。なぜか、愛する人の幸せを望むことができず、不幸を分かち合うことしか望むこともできなかった。共に生きる未来を想像できたこともなく、いつもその場限りの逃避行を楽しんできた。怒りを向けられたり、傷つけられたり、恥をかかされることに満足したり、逆に裏切ることや攻撃することに楽しさを覚えることもあった。大切にしたい、と思ったとしても今考えたらそれは本音というよりそう信じたかったように感じる。その中に私なりの優しさや思いやりも確かにあったけれど、いつも恋人と大切にしあうことができなかった。

 それは根本的に他人から与えられる愛を信じることができないからなのかもしれない。向けられる好意のなかに、私はいつも下心やエゴや加害性を探してしまう。それが暴力的なものであることを確認しようとしてしまう。そのために私は風俗の仕事をしていたのもあるかもしれない。精神的に未熟で自分勝手な人ばかり選んできたし、異性に体を委ねたり、お金を貢いだりしてきたのかもしれない。配信をし始めたのも、そういう理由だったのかもしれない。どこかで、愛や承認に飢えた人たちをひどく軽蔑してきた。そんなものが信じるに値すると思っているなんて。そんなものを与えられる価値が自分にあると思いあがっているなんて。全世界に存在を否定されても本当の私は傷つかない。恋愛においては、献身的な相手に恨みを感じたり、自分が献身的に振る舞うとすぐにそれを愛情と捉える相手にも恨みを感じることがあった。そのくらい愛が憎かった。

 そんなひねくれた価値観で自己愛の檻の中で図太く放埓な人生を生きて、この先も死んでいくような気がしていた私が、今やっとそんな自分が悲しい人間だと思えるようになった。 

 その変化は、一年かけてあるリスナーがずっと私と対話し続けて私の内面の深くにあった謎を解いたことで起こった。

 その変化の矢先に、私には新しい恋人ができた。不思議なタイミングだった。

 他人に期待することは恐ろしい。どうやって他人に差し出せるような自分の価値を認められていると信じればいいかわからない。私は今、信じようとするほどに自分が無力で無価値に感じられて他人が怖くて、胸が寒くなる。今の恋人の前では、たびたび自己嫌悪で涙が出そうになってしまう。それでも今私は罵倒ではなく、優しい言葉に耳を傾けようとしている。自分を振り回すのではなく、大切にしてくれる人を信じてみたい。ちゃんと人を愛して、傷つけられたり裏切られても仕方ないと思うのではなく、そのときは怒りたい。信じて裏切られることを惨めだと思うのではなく、信じてくれた人を裏切ることをそれより恥ずかしいと思える人になりたい。

 幸せになりたいと願えるようになりたい。好きな人を守りたいと思えるようになりたい。難しいことだけれど、このまま心が死んだままではいたくない。