綺麗な景色

 私はメンヘラっぽい暗い雰囲気なので、よく「虐待されてたの?」とか「いじめられてたの?」ときかれる。でも実は虐待もされたことないし、いじめられたこともない。なんでこんな風になったかというと、たぶん社会で一般的に求められる能力が低く(具体的には、毎回テストは赤点、浮いてしまうほどの運動音痴、提出物をなくす、ロッカーやカバンの中がゴミだらけ)、それなのにもかかわらず自己愛が強くプライドが高くて協調性がまったくなかったからだと思う。今と違い、他人にもまるで興味がなかった。今ではそれがADHDASDのせいだったと理解できる。

 親からすれば「育てにくい困った子ども」で、学校のクラスメイトたちからすれば嫌われる要素も多い「みっともないしわがままで扱いにくい人」だったのだろう。そして、自分が悪いから誰も悪者にできないということ、そして人並みになれない恥ずかしさが思春期の私を苦しめた。

 中学三年生のとき、修学旅行で八ヶ岳に行った。私はご飯の時間になっても気づかずに寝ていて誰にも声をかけられずに部屋で寝過ごしたり、夜にみんなでUNOをやっていても毎回負けて罰ゲームでいもしない好きな人の名前を何人も言わされたりしていた。とにかく最悪だった。

 そんな修学旅行中、誰とも仲良く話すこともできず心を殺して八ヶ岳を上ってやっと山頂に着いたとき、目の前に広がる絶景を見て私の中におかしな感覚が起こった。みんなが「わあ、きれい!」と嬉しそうにする中、私にはその景色がカレンダーの写真や駅のポスターのようにしか見えなかったのだ。現実の美しいものを見ているという感動がまったくなかった。それ以降、私はずっとこの感覚が残っていて、今も実は残っている。私は配信の中で何度かリスナーさんたちにきれいな景色を見せて、「きれい!」とはしゃいでみせたことがあるけれど、ごめんなさい、本当はきれいかどうかわからないんです。

 さて、中学を卒業して高校生になったころ、私は自分があまりにわがままで他人と合わせないせいで辛い思いをしたのだ、ということを一応学んだ。自分の意見を押し付けたり、人と違う部分を押し通したり、自分の話ばかりしたりするのをやめた。少し大人しくするようにも心掛けた。そうすると普通に高校では友達ができた。(私はASDグレーゾーンと診断されている。成長とともにその特性が治っていくタイプらしい。それでコミュニケーション能力が向上したのだろう。)友達ができることで、時間の管理が苦手でも友達が提出物の準備をしているから期限を守りやすくなったり、助けてくれる人を得たことで成績も低いとはいえそこまでひどくなくなってきた。中学の留学旅行で地獄を見たテーブルゲームも、いつもお弁当を食べる友人たちとトランプをして苦手意識を克服していったし、卒業前にはクラスの友人とディズニーランドにいってはしゃいだりもした。もう、私は中学の修学旅行のときのように疎外感を覚える必要はなくなったのだ。今だって、配信仲間やリスナーたちと一緒にきれいな景色を見ることができる。

 それなのになぜだろう。それからもずっとその感覚は続いた。綺麗な景色が綺麗だと感じられないだけではなく、苦手な場所はわりとある。自然豊かなところ、ぴかぴかのデパートやホテル、高校時代に楽しんだはずのディズニーランドすら苦手なのだ。私はどこかでここは自分の居場所ではないと思っているのだろうか。それはまだ思春期の頃のトラウマとプライドが私の心の奥底に残っているからなのかもしれない。みんなが美しいと感じるものは私を受け入れない、そう感じてしまうから自分から拒絶してしまうのかもしれない。そうすることで自分を特別な存在のように感じて心を守りたいのかもしれない。そのせいで本来得られる喜びが失われているのだとしたら、本当に悲しいことだと思う。

 去年の今頃、金バエさんやヒドンナさんやRINちゃんたちと熱海の温泉旅館で花火配信をした。目の前は最高の絶景。私は花火に本当は興味がないし、スマホを外カメにしていたので、実は配信者たちの顔ばかり見ていた。みんなの顔が花火に照らされて暗闇がぱっと明るくなったとき、画面にうつらなくてもみんな最高の笑顔だった。とくにRINちゃんは大はしゃぎで、画面を見ると、花火を見ているリスナーたちのコメントも大はしゃぎだった。最後の花火が打ちあがったあと、ヒドンナさんが「感動したわあ、本当に来てよかったわあ」としみじみとつぶやく。そのときは、私はみんな楽しそうだしそれを見るのが楽しかったし満足だった。でも、今の私はそのときのことを思い出すと本当に悲しい。どうしてみんなと同じ気持ちでいられなかったのか。私は花火に心を閉ざしているのかもしれない。何が怖いのだろう。街中のテレビで流れる映像のような花火。みんなが楽しいから楽しい、なんて言っといて私は実はみんなに心開いていないのだろうか。でもこの悲しみに酔っていたらいつまでもその花火もわたしにとって本物の花火にならないままだ。悲しみに酔うのは恥ずかしいことだ。

 私は変わりたいと思い始めている。変わるためには、いま周りにいる人たちの存在にもっと感謝したり、特別ではない自分を受け入れなければいけないと思う。難しいけど、今よりも大人になりたい。