「90年代サブカルチャー大総括~鬼畜系とはなんだったのか」行ってきた

 こんにちは。自称迷惑系Youtuberの弟子、ふわっち配信者あかずです。

 先日、新宿ロフトプラスワンで行われた「90年代サブカルチャー大総括~鬼畜系とはなんだったのか」というイベントに行ってきました!

 感想をYouTubeの動画に投稿しようかと思ったのですが、あれこれ考えて動画より文章にまとめることにしました。ひとさまに読ませるような文章は書き慣れていないし、久しぶりだし、稚拙になってしまいますがお許しください。(今鞄の中で昨日のメモを探したらみつかりませんでした……どっかに忘れてきたっぽくてショック……。記憶を頼りになんとか頑張ります!)

 

 さて、先日のトークショー終了後、観客席にマイクを渡して質問や感想を聞くコーナーがありました。私は登壇者の虫塚虫蔵さんが、たしか「現代でいえば迷惑系YouTuberが鬼畜系の系譜」というような発言したことに関して、「私は迷惑系Youtuberの弟子なので嬉しかったです!詳しく聞かせてください!」と発言しました。すると会場の人々に笑われ、好事家ジュネさんには「青山正明村崎百郎も高学歴で教養があって就職もしていて、まともな基礎を持っていたから鬼畜系はカルチャーになった。迷惑系Youtuberはカルチャーではない!」というようなことを怒りさえ感じる口調で言われ、それに会場の人たちが拍手する……というようなことがありました。

 私はジュネさんを目的に会いに来たのでかなり得した気分になった上に(軽蔑されたかもしれないけど……)、わりと人前でちょっと恥をかくのが好きな性癖なので大変嬉しかったです。ありがとうございました。

 さらにその話題がきっかけで登壇者の方々のトークも盛り上がり、鬼畜系と迷惑系Youtuberの違い、カルチャーとしての優劣といった議論が聞けて大変面白かったです。鬼畜系の文脈で迷惑系YouTuberの話題がなんとなくさらっと出てもそれほど気にならないけれど、いざ同一視されてることを意識されると嫌悪感を刺激される……ということが会場の雰囲気から実感できました。そのこともふまえ、カウンターカルチャーの価値や、その時代ごとの変遷について私が思うことを書いていきたいと思います。

 

 ドラッグやらロリコンやら死体やら、非社会的で露悪的でゲスなばかりの鬼畜系がなぜ価値あるカルチャーたりえるのか。そのひとつの理由は、その時代の多くの若者たちの憎むべき大人への抵抗、抑圧からの解放を象徴するムーブメントだから、つまり90年代を代表するカウンターカルチャーだったからです。鬼畜系ブームが終わったのは、そのようなカウンターカルチャーとしての終わりを迎えたためでした。70年代の若者たちにとって共通の悪は戦後民主主義の欺瞞であり、敵は政治権力というのが主流でした。やがてそれも廃れ過去の世代のものとなり、80年代も若者たちは新たな悪と敵を求めます。しかし、経済的に繁栄した不自由ない時代にはもう抗う相手はモラルだとか常識しかありません。それが過激化して大ブームになったのが90年代サブカルチャーであり、鬼畜系ブームです。過激化しすぎれば当然それは批判され規制され不自由なものになり、勢いも衰え、鬼畜系ブームは廃れていきました。そして過去になることによってダサいものになっていったのでしょう。

 昨日ジュネさんが村崎百郎青山正明の2ショットを指して、「今の時代に見たらこの写真はただのダサい中二病ですよ。この時代の先駆者だからかっこよかったんですよ!」「鬼畜系はもう死にました。蘇りません。」と言っていたのは、彼女が若い世代の代表だからこそ胸が痛くなりました。鬼畜系はもう死体……屍を肥やしにした新たな文化はまたちがうものになるでしょう。ちなみに私が鬼畜系にハマったのは10年代で、そのとき大学生活の前半くらいでした。私はなぜいつも時代にそぐわない側につくのか……。それは私がいつも時代の代表者から外れて、頓珍漢な不満を抱えているからなのでしょうか。

 話は少しずれますが、似たような時代ごとの隆盛と衰退は、政治的傾向にも起こります。たとえば、00年代から少しづつ高まった嫌韓ムードは10年代でピークになり、在日特権を許さない市民の会や、レイシストしばき隊の運動が盛り上がりました。少数派の権利を訴える運動がある程度実現し、社会の差別が浄化されると、今度は過激な少数派が多数派にとって抑圧だと感じる時代がやってきます。そこから弱者の特権や逆差別への批判が高まったり、さらに一周回って差別を推進するような団体が現れ過激化し、それに対抗する団体も現れたのです。

 この運動の盛り上がりがピークの頃、私は大学生で一時期このあたりのことに関心がありました。わりとリベラル側だったので、カウンターデモに参加したこともあったのですが、明らかに露悪的で差別的なデモに比べてそのダサさにまず辛くなりました。正しいとか間違いとか以前に、なぜリベラルはなんとなくダサいのか、胡散臭いのか……。その理由はいまでも薄っすらと私の関心事ではあります。

 

 さて、20年代令和の時代、ここでやっと迷惑系Youtuberの話題になります。厳しい表現規制コンプライアンスの時代でありながら、なぜ同時に迷惑系Youtuberがこんなにも話題になり、連日SNSは炎上するのでしょうか。迷惑系Youtuberに教養や思想があるのかとか、実は社会経験があるのかとか、表現したいものがあるのかは別として、その需要と時代の親和性についての考察はまた後日書こうと思います。そして、ここまで書いたように私はいつも今生きている時代では敵とみなされる方にいるような気がすることと、それは関係あるような気がしています。

 

本当にぜんぜん考えてることまとまらなかった.……

でも文章を書く練習としてちょっとブログも書きたくなりました。

それは黒野忍さんが、鬼畜系はやはり活字であることに意味があったと言っていたのもあります。

きりがないので今日はここで終わりにします。